武術や気功を学ぶ上で、常に考えさせられることの中に「強さ」とは何か、というものがあります。それは身体的な「強さ」もあれば、社会的立場としての「強さ」、経済力という意味の「強さ」もあるでしょう。
しかし武術や気功においての「強さ」という意味では、これらは少し物足りないと思うのです。結論から言ってしまえば、武術や気功の求める強さとは「死」や「恐怖」をどう克服するか。そこへ至る「道」なのだと思うのです。
例えば格闘技で世界チャンピオンになったとしても、次々に現れる若い挑戦者にいつその座を奪われてしまうか、という不安が付きまといます。
ビジネスに成功して名だたる大富豪になっても、いつリーマンショックのような不況が襲い、あるいはライバル社の躍進によって経営不振に陥るかという心配は消えません。
社会的、政治的な権力を持ち、世界中のあらゆるものを制圧して支配下に置けたとしても、自らの老いや病気、孤独に対しての恐怖を拭うことはできません。
武術や気功において追い求める「強さ」の意味とは、結局のところ自らの内にある不安や恐怖とどう対峙するか、ということに尽きます。対外的なものに対して優位な立場にあったとしても、自分の中に消せない不安がある以上はどこまで行っても真の意味で「強い」とは言えないのです。
ということは逆に考えてみると、他者から見れば特に立場的にも優位ではなく、身体的、経済的にも特別秀でていなくても、自身の心の中に不安や恐怖がなければ、それは本質的に「強い」ということになるのです。
古来より武術や気功は、世の中のどうにもならない理不尽な出来事や、突発的な不幸、必然的な病や、避けられない死、そうしたある種の宿命的な不安や恐怖をどうやって乗り越えるかが大きな命題でした。
そしてそのための方法こそ、それらを「受け入れる」ことにあるのです。
避けられない不安や恐怖すら自らの「生命」として「一つ」にし、受け入れてしまうことで、本当の意味で安らかな境地=「真の強さ」を手に入れることができるのです。
そうした意味で武術の奥義は「恐怖と合気する」ことであり、気功の奥義は「不安と友達になる」ということになります。古来から言われる「陰陽合一」ということですね。その境地までいくために日々鍛錬と修行があり、それを体現できたときこそ「覚悟ができた」ということになります。
「覚悟」すなわち「もはや怖いものなし」ですからね。
最後に「強さ」をテーマにした歴史小説を2冊ご紹介します。
一つは大東流合気柔術の創始者である「武田惣角」の一生を描いた「鬼の冠」。
もう一つは「薩摩の一太刀は外せ」と恐れられた一撃必殺の剣「薩摩示現流」。
どちらも歴史小説家である「津本陽」の作品ですが、大東流合気柔術をはじめ武術の修行を志す人にとっては非常に参考になります。小説としても非常に面白い作品ですよ。
毎回最後まで読んでいただき、有り難うございます。
昨日よりもほんの僅かでも強く前向きになれるよう、今日も楽しく頑張りましょう。
グッドラック!
Comments